三分間モノローグ

独り言 誰も読まなくていいんだよこんなもの

先の先の先のさき

 

最近布教活動はトムソーヤのペンキ塗りと似ているなあと思いました

私は私の好きなものを好きな人たちが好きでも嫌いでもどちらでも良いのだけれど、

やっぱり良いものや楽しいことって紹介したくなるよねえ

 

でもそこであまりに押し付けすぎると嫌われたり、

熱が入りすぎると引かれたり難しい、、、

 

そこでトムソーヤのペンキ塗りの話を思い出したのだけれど

やっぱり楽しそうに好きなことをするのが一番かな。

 

押し付けず、無理強いもせず。

楽しそうにしてればなんか向こうから興味を持ってくれることもあるかなあ、と。

 

そんな感じで最近は妹もハロプロ好きになってくれました。

小田さく推しらしいやったねー。

 

ハロプロはいいぞ、という話でした。

 

 

「さよならくちびる」を見ました。

小松奈菜、成田凌門脇麦あいみょん、秦くん

ってお得バリューセットすぎん??

 

結論から言って、好きです私は。

あのグズ役に定評がある成田凌が女の子二人に振り舞われているのが面白かったり、

劇中歌が最高だったり、門脇麦の演技の素晴らしさとか、小松奈菜様のお顔の素晴らしさとか(ショートボブが素晴らしい)

いろいろ好きポイントがあったけど一番好きなのは同性愛の描写でした。

 

なんか最近同性愛をテーマにした映画やドラマが増えてような気もするけど

この映画では宣伝でも「同性愛」を所謂「売り」にしてないいけれど、この物語の大きなエレメントになっている。

でも、この映画の中では一切“レズ”とか“ゲイ”ていう言葉が出てないんですよね。

 

私も大学在学中に授業を受けて知ったのだけれどゲイもレズも差別用語らしい。

たしかに、そもそも何かに「言葉をつける」という行為はそれ自体が線引きで、

差別意識の表れなのかもしれない。

 

その授業を受けてから私はそれらの言葉を極力使わないようにしようと思いました。

なんか濁音入ってるし響きも良くないしね。みんな同じでいいよね。

 

とにかく、押し付けがましくなくて、異質でもない、非常にさらりと違和感なく溶け込んでいる。これがあるべき本来の姿なんだろうな。

そこに「ある」だけなんですよね それを無理に浮きだたせる必要もないし気を使う必要もない「ある」ものをそのまま「ある」べきのままとして映していく映画だった

 

はやく大好きな人のことを誰もが隠さなくてもいい時代が来るといいな、と思いました。

 

 

 

 

まだまだ頑張れる、と思います。

というかまだまだ頑張ります。

 

今週末は映画見たりお酒飲んだししてリフレッシュして、

もう一回エンジンかけ直します。とりあえず夏期講習までに体力作りしつつ、さらに加速させようと思う。

 

あまり勉強のことはブログで書くのやめようと思っていたけど。

今のところ数学以外が偏差値65くらいで数学偏差値53というあいからず数弱から抜け出せない状況でござる。

作戦としては総合偏差値70越すために英語で75を越して理科で70目指しつつ数学は60を狙っていく感じです。

 

残念ながら才能も閃きも自分にはこれっぽっちもないということが勉強していくうちに分かってしまった。

 

落ち込んでいるかといえばそうでもない。

自分の頭の悪さを理解できて、やっとスタートラインに立てる勝負もあるものだ。

 

だから、まだまだ頑張る。

絶対、一生のうちで一番勉強したって、そう言えるような、うん。

 

私はまだまだまだまだ自分に失望したくないと思ってます。

それだけ。

 

 

 

 

 

オーストラリア記(未完)

部屋の掃除をしていたらオーストラリアで書いていた日記のような何かが見つかったので書き起こしていこうと思う

日記のような何か、そう記したのは日記というにはあまりにも短く内容がなかったからだ。

花序書きでその日あった人の名前や行った場所だけがかろうじて読める英語で記してある。日記というよりはメモといったほうがいいのだろう。

 

3年も前のことになるらしい。

2016年、今でもあの涼しい暑さを時折思い出す

 

シドニー

 

3/6(日)

9:00 Sydney 

10:30 House-Emilia, Mike

 Monica(28)

Jasmine(19)

 

3/6の夕方から成田から国際便でシドニー空港へ

何を見たのかは忘れたのだが飛行機の中で映画を立て続けに3本くらい見たので一睡もしないままシドニー

 

睡眠不足の脳みそに真夏のオーストラリアの日差しが直撃して空港を出た瞬間軽い目眩に襲われる

バス停近くでホームステイ先へ送り届けてくれる業者の人と無事合流、そのままその人が運転するワゴン車に乗りホームステイ先まで送り届けてもらう。

他にも私と同じくらいの年齢の日本人の女の子たちが4、5人。

みな春休みで英語学習に来てるらしい。

 

10:30 ホームステイ先に着くホストファミリーの名前はEmiliaとMike二人とも40代後半といったところか。Mikeは見たところ典型的なオーストラリア人Emiliaはインド人っぽい見た目。さいごまでなぜかあまり二人が会話しているのを見かけなかった。ふたり

 

 

 

。。。。ここで途絶えてたオーストラリア記

いつは再生しようという戒めのためにも公開しておく

 

 

その拘り

牛乳を飲もうとキッチンに向かったのに先に水を飲んだら牛乳を飲む気が無くなってしまった

なんてことは私にとって日常茶飯事なわけだ。

そんなとき少しがっかりするのだ。なんだ、お前の牛乳を飲みたい気持ちはこの程度のものだったのか、と。

 

つまりは結局、私は牛乳が飲みたかったわけではなく、ただ喉が渇いていただけなのだ。

 

或いはそうだな、寿司を食べようと思っていたのにお目当ての店が運悪くお休みで、代わりに横にあった焼肉屋に行ったらそれはそれで気持ちが満たされてしまった、とか。

 

つまり腹が満たせればなんでもよかった訳だ。

 

 

拘りの欠如は意志力の停滞なのではないか

いやおおげさか

 

 

なんとなく、一人で過ごしすぎて。

このままいままでの人間関係を全てリセットして、捨ててみるのもアリかもなとか思ったり思わなかったり。

6月のせいですね

 

所詮いまの時代はSNSが切れれば簡単に切れますね

簡単に繋がれもするけど

 

とりあえずツイッターはいらないかもなぁと思い始めた今日この頃

6月のせいです

 

五月の風、まどろみの中に君を見る

園に吹き抜ける風は心地いい

額の汗がすうっとひいて、ふわりと舞った前髪が

ぱさり

と また額に着地した

 

昨日髪を切りパーマをかけたのだ

軽くなったかみがくるくると風を巻き上げるのが楽しくて鼻歌でも歌ってしまいそうな春の昼下がりだった

 

こんなに気分がいいのは髪だけの所為ではない

疑問が一つ解けたからだ

 

 

夏目漱石の「それから」を読んだ。

ら最近、というか勉強を始めてから

ずっと、ずっと、疑問に思っていたことやもやもやが一気に晴れたのだ

 

忘れないうちに考えたことをまとめておこうと思う

 

そもそも「それから」はどのような話なのか?

このブログを読むと主人公の人物像がわかると思うので勝手に引用しておく

kotoyumin.com

 

 

文中に主人公代助の言葉、

「『働くこと』で自らの何かが汚されてしまう」

とあるのだが、まあ、誰だって思うだろう、「ニートを正当化すんなクズニート」と。(特大ブーメラン

 

しかし、読み進めていくうちにいろいろ思うことがあったのだ

まあ聞いてほしい、お酒のつまみにでも、暇つぶしにでもしてくれ

ああ、最近は暑くなってきたから炭酸にレモン絞ってウォッカ入れるのがおすすめだ

 

 

 

「君は金に不自由しないから不可いけない。生活に困らないから、働らく気にならないんだ。要するに坊ちゃんだから、品の好い様なことばっかり云っていて、――」
 代助は少々平岡が小憎らしくなったので、突然中途で相手をさえぎった。
「働らくのもいが、働らくなら、生活以上のはたらきでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭パンを離れている」
 平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔をうかがった。そうして、
何故なぜ」と聞いた。
「何故って、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの
「そんな論理学の命題みた様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云よってくれ」
つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来にくいと云う意味さ
「僕の考えとはまるで反対だね。食う為めだから、猛烈に働らく気になるんだろう」
「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食う為の働らきと云うと、つまり食うのと、働らくのと何方どっちが目的だと思う」
「無論食う方さ」
「それ見給え。食う方が目的で働らく方が方便なら、食いやすい様に、働らき方を合せて行くのが当然だろう。そうすりゃ、何を働らいたって、又どう働らいたって、構わない、只麺麭が得られればいと云う事に帰着してしまうじゃないか。労力の内容も方向も乃至ないし順序も悉くから制肘せいちゅうされる以上は、その労力は堕落の労力だ」

 

 

これは代助が「働くこと」についての持論を友人の平岡に対して述べている部分だ。

ハングリー・モチベーションを真っ向から主張する平岡に対して、代助は「食う方が目的で働く方が方便なら」と、そのような仕事は決して誠実ではないと主張する。

 

ここにわたしのずっと考えてきたことや、自分の取り巻く環境や生活について、あるいは大げさかもしれないが現代社会について、得体の知れない薄気味悪さの正体が分かった気がするのだ。


ここでもう一つ引用

イギリスの哲学者バートランド・ラッセル

現代人は、何事も何か他の目的のためになすべきで、それ自体のためになすべきではないと考えている。

 

 

いや、まさに。

息苦しさの正体はこれだったのか。そう思ったんだよね。

 

あまり記憶がないのですがもう1年ほど前、私は3月頃精神科に通っていた。

何をしても不安で夜寝付けなくて、足元がグラグラする感覚、吐き気

なんのために勉強してるのか、何のために生きているのかがわからなくなったわけです。

(いまはめちゃくちゃ楽しんでる)

 

 

だからこそ「それから」を読んで思った。

何事も何かの目的のための手段として捉える考え方は、人生そのものを空虚なものにしてしまうのではないだろうか?

受験勉強をするのは有名大学に入るため。有名大学に入るのは安定した良い職に就くため。なにかを頑張るには必ず理由や見返りが必要で、それ以外は無駄で何の価値もない、そう言われてきた。いや、はっきり言われないまでもそういったプレッシャーが常にのしかかってきた。生まれてから、ずっと、ずっと。

 

でもこれって「なんのためか」を先送りにしているだけではないだろうか?

価値があるとは思えない目先の物事をこなしてるうちに人生終わってしまうのではないだろうか?

 

私が代助から受け取ったメッセージは「空虚な人生を送りたくなければ、自分のしようとしていることにどんな意味や価値があるのかをよく考えろ」ということだ。

勉強は本当に大学受験のためだけ、資格のため、キャリアアップのためだけにあるんだろうか?勉強するために勉強することはいけないことなんだろうか?

 

今年の3月あたりから勉強が楽しい、のは勉強のために勉強できているからだと納得できた。

 

よく、寄り道を楽しめない人は人生も楽しめない

というが全くその通りだ。

 

わたしは、教育機関にも、職場にも属さない、この、今をとても無駄で、意味のないものだと思っていた。

人生を無駄にしてると思っていたのだ。でもある時価値観が変わって、人生のうちでもしかしたら今、もの凄く贅沢で幸せな時間を過ごしているのではないのだろうか?そう思えた時、毎日が信じられないほど楽しくなってしまったのだ。

 

 

なんのためでもない、学問するために学問して、生きるために、生きている。

これは間違えない、とても純粋で、価値のあることだ。「それから」を読んで確信したのだ。

 

諸君、生きるために生きてほしい。理由なんて後付けで良いし、無くたって構わない。

人生なんて死ぬまでの暇つぶしだ。そこに意味を見いだすのは、皮肉にもさ、それこそ無意味かもね。

だったら、せめて楽しい暇つぶしにしてやろうじゃないか。

 

乾杯!

拝啓、親愛なる

君へ。

ここまで書いて、消して書いてをなん度も繰り返す。

なん度も消しゴムをぶつけられた紙は擦り切れて薄くなっていた。

自分でも何をしているのかわからなくなってくる。

 

先日、久しぶりに銭湯に行った。大江戸温泉やお風呂の王様、といった類のものではない。普通の、人が20人も入れない程度のスーパー銭湯である。

たぶん、10年以上ぶりくらいだ。最後に行ったのが小学生の頃だったと思う。

小学5年生の頃に私は日本に戻ってきた。当時、母と妹は中国にいたので父と二人暮らしだ。私はだいたい家に一人でいるか、祖母の家で父が帰るのを待っていた。

祖母の家は魚屋で祖父は父が若い頃にアルコール中毒で亡くなったので父のお兄さんがお店を切り盛りしていた。私にとってはおじさんだ。

おじさんは私が行くといつもマグロやタコをその場で切って刺身にして出してくれた。

当時はまだとても忙しかった父が仕事を終わらせるのは九時を回った頃で仕事終わりに私を迎えに来てそのまま家の近くにある銭湯によく行った。

 

家に風呂がないわけではない、ただ父にとっては良いコミュニケーションツールだったのだろう。風呂から上がった後、必ずビン牛乳を買ってくれたので二人で飲んだ。

牛乳の他にコーヒー牛乳とフルーツ牛乳があって、毎回コーヒー牛乳と少しだけ迷ってやっぱり普通の牛乳のボタンを押す。フルーツ牛乳を選択肢に入れたことはなかった。

 

ツイッターフルーツ牛乳が製造停止になる、ということを知ってその時の記憶がよみがえりわざわざ銭湯に行ってフルーツ牛乳を飲みに行ったのだ。父はいない、一人で。

 

なんてことない、普通の甘ったるい牛乳だ。

なのに凄く美味しく感じられたのは思い出のせいだろうか。

人は感覚より記憶に生かされてるのかもしれない。

 

なくなって初めて気づく大切さ、とはよく言われるが今回はフルーツ牛乳だったのか。

 

それは少し期間限定という言葉と似ていると思う。

期間がつくと人は急に焦るのだ。逆に限定されないと永遠に気づかないのだ、阿呆め。

 

でもよく考えてみたら期間が限定されていないものなんてない。

もう、この世に生を受けてしまった時点でタイムリミットは全てのことに付随する。

好きだった服の会社が明日には倒産するかもしれないし、母校が廃校になるかもしれないし、明日には死んでいるかもしれないし。。。

 

永遠なんてものはなくて世界は1秒ずつ変わる

これから周りの環境も友達も変わっていくのだろう

 

それでも、なにか、

信念とか哲学とか情熱とか友情とか愛とか世界が変わっていっても自分の中に何か一つでもずっと変わらないようなものを持てたら、素敵だ。

 

大切にしていきたい。

 

午前三時のヘッドフォン

となく生きてても何となく生きては行けるもの

まあでも、上手くいかなくなってくる日は突如襲ってくるわけで

 

同じページを捲りすぎて擦り切れた本のように

靴ズレを無視して歩いてたら傷口が膿んで歩けなくなった時のように

 

違和感やズレを無視し続けると何処かで必ずツケは回ってくるもので

 

高校を卒業して5年、私なりにいろいろな場所に行っていろいろな人と出会いと別れを繰り返してきたわけだけどやっぱり芯や筋が通ってる人が好きだと思った

 

結構その人がどういう人間でどういう生き方をしてきたのかは初めて会った人でもすぐわかるものだと思ってる。特に30代以降は。上手く言えないけれど表情とか口調とかから人柄というのは驚くほど現れる。

 

なんの特技もないけれど自分には人を見る目だけはあるなと周りの人々を見てて思った

 

 

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 最近石が好き

博物館で撮ったやつ

 

www.youtube.com

 

日食なつこさんの曲と歌詩はとても素敵

いつか思い出と名付けて遠くから眺める事になる日々に

えば、諦めのいい子供だった

 

自分に都合のいい嘘をついて折り合いをつけるのが上手いのだ

だから今まで誰とも喧嘩をした事がないし言い争いもしない

感情的になる人間を少し小馬鹿にしている節さえあった

 

小さい頃の記憶で思い出すのは両親と過ごした時間ではなく当時家にいた住み込みの家政婦の人たちと遊んだ日々だ

思えば彼女たちが私が我儘を言える唯一の人たちだったのかもしれない

 

今までずっと、親に怒られないよにはどうしたら良いかを考えて、ビクビクと怯えながら生きてきた

そうするうちに自分という個がどんどん無くなっていく感覚があった

 

私は大きな挫折や失敗をした事がない

自惚れでしかないのは重々承知であるが、今までの人生はそこそこ上手くやってきたのだと思う

それなりの努力をすればまあまあの結果がいつも付いてきて、大失恋もなく、そこそこの大学を卒業し働かなくても家のお金で一生生きていける

 

いまはゼロだ

マイナスではないにしてもゼロだ

 

でも思ったより悪くないと思った

これは見栄でも意地でもなく本当に思っている

 

信じられないほど身軽で清々しい気分ですらある

 

私はもう、そこそことかまあまあとか辞めようと思う

いつも詰めが甘い

良いところで手放してしまう癖がある

 

やるならとことん、だ。

絶対納得いくまでは諦めない

自分の頭で考える、他己評価はクソなので気にしねえ

 

クッソたれが、お前の人生だてめえでなんとかしろ

 

頑張ろう