三分間モノローグ

日々の記録

拝啓、親愛なる

君へ。

ここまで書いて、消して書いてをなん度も繰り返す。

なん度も消しゴムをぶつけられた紙は擦り切れて薄くなっていた。

自分でも何をしているのかわからなくなってくる。

 

先日、久しぶりに銭湯に行った。大江戸温泉やお風呂の王様、といった類のものではない。普通の、人が20人も入れない程度のスーパー銭湯である。

たぶん、10年以上ぶりくらいだ。最後に行ったのが小学生の頃だったと思う。

小学5年生の頃に私は日本に戻ってきた。当時、母と妹は中国にいたので父と二人暮らしだ。私はだいたい家に一人でいるか、祖母の家で父が帰るのを待っていた。

祖母の家は魚屋で祖父は父が若い頃にアルコール中毒で亡くなったので父のお兄さんがお店を切り盛りしていた。私にとってはおじさんだ。

おじさんは私が行くといつもマグロやタコをその場で切って刺身にして出してくれた。

当時はまだとても忙しかった父が仕事を終わらせるのは九時を回った頃で仕事終わりに私を迎えに来てそのまま家の近くにある銭湯によく行った。

 

家に風呂がないわけではない、ただ父にとっては良いコミュニケーションツールだったのだろう。風呂から上がった後、必ずビン牛乳を買ってくれたので二人で飲んだ。

牛乳の他にコーヒー牛乳とフルーツ牛乳があって、毎回コーヒー牛乳と少しだけ迷ってやっぱり普通の牛乳のボタンを押す。フルーツ牛乳を選択肢に入れたことはなかった。

 

ツイッターフルーツ牛乳が製造停止になる、ということを知ってその時の記憶がよみがえりわざわざ銭湯に行ってフルーツ牛乳を飲みに行ったのだ。父はいない、一人で。

 

なんてことない、普通の甘ったるい牛乳だ。

なのに凄く美味しく感じられたのは思い出のせいだろうか。

人は感覚より記憶に生かされてるのかもしれない。

 

なくなって初めて気づく大切さ、とはよく言われるが今回はフルーツ牛乳だったのか。

 

それは少し期間限定という言葉と似ていると思う。

期間がつくと人は急に焦るのだ。逆に限定されないと永遠に気づかないのだ、阿呆め。

 

でもよく考えてみたら期間が限定されていないものなんてない。

もう、この世に生を受けてしまった時点でタイムリミットは全てのことに付随する。

好きだった服の会社が明日には倒産するかもしれないし、母校が廃校になるかもしれないし、明日には死んでいるかもしれないし。。。

 

永遠なんてものはなくて世界は1秒ずつ変わる

これから周りの環境も友達も変わっていくのだろう

 

それでも、なにか、

信念とか哲学とか情熱とか友情とか愛とか世界が変わっていっても自分の中に何か一つでもずっと変わらないようなものを持てたら、素敵だ。

 

大切にしていきたい。