三分間モノローグ

日々の記録

五月の風、まどろみの中に君を見る

園に吹き抜ける風は心地いい

額の汗がすうっとひいて、ふわりと舞った前髪が

ぱさり

と また額に着地した

 

昨日髪を切りパーマをかけたのだ

軽くなったかみがくるくると風を巻き上げるのが楽しくて鼻歌でも歌ってしまいそうな春の昼下がりだった

 

こんなに気分がいいのは髪だけの所為ではない

疑問が一つ解けたからだ

 

 

夏目漱石の「それから」を読んだ。

ら最近、というか勉強を始めてから

ずっと、ずっと、疑問に思っていたことやもやもやが一気に晴れたのだ

 

忘れないうちに考えたことをまとめておこうと思う

 

そもそも「それから」はどのような話なのか?

このブログを読むと主人公の人物像がわかると思うので勝手に引用しておく

kotoyumin.com

 

 

文中に主人公代助の言葉、

「『働くこと』で自らの何かが汚されてしまう」

とあるのだが、まあ、誰だって思うだろう、「ニートを正当化すんなクズニート」と。(特大ブーメラン

 

しかし、読み進めていくうちにいろいろ思うことがあったのだ

まあ聞いてほしい、お酒のつまみにでも、暇つぶしにでもしてくれ

ああ、最近は暑くなってきたから炭酸にレモン絞ってウォッカ入れるのがおすすめだ

 

 

 

「君は金に不自由しないから不可いけない。生活に困らないから、働らく気にならないんだ。要するに坊ちゃんだから、品の好い様なことばっかり云っていて、――」
 代助は少々平岡が小憎らしくなったので、突然中途で相手をさえぎった。
「働らくのもいが、働らくなら、生活以上のはたらきでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭パンを離れている」
 平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔をうかがった。そうして、
何故なぜ」と聞いた。
「何故って、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの
「そんな論理学の命題みた様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云よってくれ」
つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来にくいと云う意味さ
「僕の考えとはまるで反対だね。食う為めだから、猛烈に働らく気になるんだろう」
「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食う為の働らきと云うと、つまり食うのと、働らくのと何方どっちが目的だと思う」
「無論食う方さ」
「それ見給え。食う方が目的で働らく方が方便なら、食いやすい様に、働らき方を合せて行くのが当然だろう。そうすりゃ、何を働らいたって、又どう働らいたって、構わない、只麺麭が得られればいと云う事に帰着してしまうじゃないか。労力の内容も方向も乃至ないし順序も悉くから制肘せいちゅうされる以上は、その労力は堕落の労力だ」

 

 

これは代助が「働くこと」についての持論を友人の平岡に対して述べている部分だ。

ハングリー・モチベーションを真っ向から主張する平岡に対して、代助は「食う方が目的で働く方が方便なら」と、そのような仕事は決して誠実ではないと主張する。

 

ここにわたしのずっと考えてきたことや、自分の取り巻く環境や生活について、あるいは大げさかもしれないが現代社会について、得体の知れない薄気味悪さの正体が分かった気がするのだ。


ここでもう一つ引用

イギリスの哲学者バートランド・ラッセル

現代人は、何事も何か他の目的のためになすべきで、それ自体のためになすべきではないと考えている。

 

 

いや、まさに。

息苦しさの正体はこれだったのか。そう思ったんだよね。

 

あまり記憶がないのですがもう1年ほど前、私は3月頃精神科に通っていた。

何をしても不安で夜寝付けなくて、足元がグラグラする感覚、吐き気

なんのために勉強してるのか、何のために生きているのかがわからなくなったわけです。

(いまはめちゃくちゃ楽しんでる)

 

 

だからこそ「それから」を読んで思った。

何事も何かの目的のための手段として捉える考え方は、人生そのものを空虚なものにしてしまうのではないだろうか?

受験勉強をするのは有名大学に入るため。有名大学に入るのは安定した良い職に就くため。なにかを頑張るには必ず理由や見返りが必要で、それ以外は無駄で何の価値もない、そう言われてきた。いや、はっきり言われないまでもそういったプレッシャーが常にのしかかってきた。生まれてから、ずっと、ずっと。

 

でもこれって「なんのためか」を先送りにしているだけではないだろうか?

価値があるとは思えない目先の物事をこなしてるうちに人生終わってしまうのではないだろうか?

 

私が代助から受け取ったメッセージは「空虚な人生を送りたくなければ、自分のしようとしていることにどんな意味や価値があるのかをよく考えろ」ということだ。

勉強は本当に大学受験のためだけ、資格のため、キャリアアップのためだけにあるんだろうか?勉強するために勉強することはいけないことなんだろうか?

 

今年の3月あたりから勉強が楽しい、のは勉強のために勉強できているからだと納得できた。

 

よく、寄り道を楽しめない人は人生も楽しめない

というが全くその通りだ。

 

わたしは、教育機関にも、職場にも属さない、この、今をとても無駄で、意味のないものだと思っていた。

人生を無駄にしてると思っていたのだ。でもある時価値観が変わって、人生のうちでもしかしたら今、もの凄く贅沢で幸せな時間を過ごしているのではないのだろうか?そう思えた時、毎日が信じられないほど楽しくなってしまったのだ。

 

 

なんのためでもない、学問するために学問して、生きるために、生きている。

これは間違えない、とても純粋で、価値のあることだ。「それから」を読んで確信したのだ。

 

諸君、生きるために生きてほしい。理由なんて後付けで良いし、無くたって構わない。

人生なんて死ぬまでの暇つぶしだ。そこに意味を見いだすのは、皮肉にもさ、それこそ無意味かもね。

だったら、せめて楽しい暇つぶしにしてやろうじゃないか。

 

乾杯!