三分間モノローグ

日々の記録

透明人間

コーヒーの味がしなくなった朝のことを私はこれから一生忘れない気がする。

 

異変を感じたのは体調を崩した2日目の夕方だった。「サマータイムレンダ」をネットフリックスで一気に見終わった私は小腹が空いたので友達がくれたメープルサンドを口にした。甘さと共に香る上品なメープルの風味が特徴的な有名な東京土産である。

その時はまだ思考が「サマータイムレンダ」だった。タイムリープものはずるい問答無用で面白いのだ。しかもそこにちょっとしたホラー要素が加わるとさらに面白い。そんなことを考えながらメープルサンドを咀嚼し飲み込む。飲み込んだあとに圧倒的な違和感に気づいた。メープルの風味が一切しない。背筋にひんやりとしとものが走った気がした。いや,気のせいかもしれない考え事をしていたから脳のリソースを味覚や嗅覚に集中できなかっただけだろう。

「やれやれだぜ」そう脳内で呟き,オドけながら私は挽いたコーヒー豆が入ったビンに手を伸ばす。蓋を開けて鼻を近づけた。この時点でもうおかしい事に本当は気づいていた。私は本来嗅覚がかなり良いのでビンを開けた瞬間にはむせ返るようなコーヒーの香りを感じることができたはずだ。それに,特に最近,コーヒーを自宅で淹れることにハマっていた。コーヒーをわざわざ自宅で淹れるという行為は忙しさの中にもほんの少し自分の中の余裕を演出できる気がして好きなのだ。

「無」だ。ビンの中には「無」が広がっていた。ずっしりとしたコーヒーの重みとは逆にあっけらかんとした無がどこまでも広がっていた。怖くなった私はすぐにビンを閉じて寝ることにした。

大抵の自分の中の不調は寝たら良くなるという考えが昔から私の中にはあったのだ。

 

朝起きてまずシャワーを浴びた。昨日の朝に入った時には感じられたモルトンブラウンのボディーソープも「無」の香りがした。

 

ダメもとでそのままコーヒーを淹れてすがるような気持ちで口をつけた。一口飲んで,「少し苦いお湯」をすぐさま流しに流した。

カラー写真がモノクロ写真になったような,交響楽団がいきなりソロになったようなそんなかんじだ。

 

かろうじて塩味,甘味の識別はできるが何かを食べた時に鼻腔から抜けるう風味や香り,苦味,旨味,など複雑な味が全くわからない。

全ての食べ物の味が木綿豆腐に塩をかけて食べてるような味がする。

 

自分の体からの香りも感じられない。

服の柔軟剤の香りやシャンプーの匂い,汗の匂い。途端に世界から自分の存在が抜け落ちたような感じかした。自分を認識できない。

 

1週間経った今も全くわからない。

このまま存在が薄くなり続けて本当に「無」になるのはいつだろうか。